高級車と丸の内スーツの幻影。目に見える豊かさを疑うことから始まる話

六本木通りで赤信号を待っていた二十代の私

二十代の半ば、まだ手取りが二十万円ちょっとだった頃、私は本気で信じ込んでいた。
世の中の金持は、全員が高級車に乗り、仕立てのいいスーツを着て、夜遊びをするものだと。
金曜の夜、残業でぼろぼろになった身体を引きずりながら、合コンに参加するため六本木通りの交差点で信号待ちをしていたことがある。
目の前を横切っていったのは、憧れのメルセデス・ベンツのGクラスだった。運転席にいたのは、おそらく私と大して年齢の変わらない若い男だった。助手席には楽しそうにしている女性がいる。
あの時の胸のざわつきは、今でも鮮明に思い出せる。羨望と劣等感が混ざり合った、苦い感情だ。
自分は今日も終電間際までエクセルと睨み合って、上司の機嫌を取り、コンビニのおにぎりを貪っているのに、なぜ彼らはあんな乗り物を転がしていられるのか。
世の中の頂点に立つ人間は、こうやって富を身に纏い、わかりやすく誇示しながら生きているのだと、疑いもせずに思い込んでいた。
目に見える派手な消費こそが豊かさの証明であり、それを持たない自分は社会の歯車でしかない。そんな浅薄な世界観に縛られていた当時の私に、もしタイムマシンで会えるなら、肩を揺さぶって「目を覚ませ」と教えてやりたい。
お前が見ているその風景の半分以上は、巧妙に作られた舞台装置であり、虚栄のサーカスに過ぎないのだと。
あの頃の私は、本当のお金持ちという生き物の生態を、何ひとつ知らなかったのである。

給料が上がっても外車には乗れない。電卓を叩いて青ざめた私の現実

他人の高級車を眺めて指をくわえていただけなら、まだ可愛げがあった。愚かなことに、私は自分自身の給与明細を握りしめ、本気でその見栄の罠に足を踏み入れようとした時期がある。
社会人になって六年目、少しだけ昇給し、それなりのボーナスが出た時のことだ。口座に振り込まれた数字を見て、私はすっかり気が大きくなっていた。
「そろそろ自分も、ちゃんとした外車に乗れるんじゃないか」
新車は流石に無理だとしても、二世代落ちの中古なら、中古車サイトを見渡せば手頃な価格帯で転がっている。
毎晩ベッドの中で中古車情報サイトを眺め、パーキングエリアに車を停めて缶コーヒーを飲む自分の姿を妄想していた。
だが、休日にディーラーへ足を運び、具体的な見積書をもらって帰宅した夜、現実は容赦なく冷え切った数字として突きつけられた。
テーブルで電卓を叩き始めた瞬間、私の背中から嫌な汗が吹き出したのを覚えている。
車両価格そのものは、ローンを組めば月々数万円程度に収まるように見えた。
しかし、維持費という名の現実が、容赦なく牙を剥く。
都内の法外な月極駐車場代だけで毎月4万円が消え、年に一度の自動車税、そして高額な任意保険料。極めつけは、車検費用と故障時の修理代だった。
国産車なら数万円で済むような消耗品や樹脂パーツの交換でも、本国からの部品取り寄せや工賃で、一撃で数十万円単位の請求が飛んでくる。
電卓が弾き出した「外車を維持するために必要な月々の総額」は、私の昇給分どころか、毎月の手取りの半分近くを吹き飛ばす規模だった。
仮にこれを無理して契約したとして、その先に待っている生活はどうなるのか。
休日に友人から美味い飯の誘いがあっても断り、スーパーの特売品を買い漁り、平日のランチはワンコインで済ませて、ボロアパートの窓から駐車場に佇む車を眺めるだけの日々だ。
外から見れば「外車に乗っている小洒落た若手サラリーマン」に見えるかもしれないが、実態はただの経済的困窮者である。車に乗るのではなく、完全に車に生活を乗っ取られてしまう。
給料が少し上がったくらいでは、外車なんて到底買えない。社会人として少し自信がついたつもりでいたが、私は単に「維持費の仕組み」すら理解していない世間知らずだったのだ。
夜中に電卓を伏せ、パソコンのブラウザを閉じたとき、情けなさと同時に、冷や汗が出るほどの安堵感を覚えた。見栄を張って契約書にサインする直前で踏みとどまれたことだけが、当時の私の唯一の救いだった。

残価設定ローンという名の現代の魔法

二十代の頃に抱いていた「高級車に乗る=大金持ち」という図式は、世の中の仕組みを理解するにつれて、音を立てて崩れ去っていった。

三十代を過ぎ、社会を観察する中で、かつて六本木通りで見上げていたあの光景の裏側には、ある巧妙なカラクリが横たわっている事実が透けて見えるようになったのだ。

街を走るピカピカの高級車の運転席を眺めると、乗っている人間は大きく二つの人種に分かれる。

一つは、純粋な車好きだ。彼らは機械としての車を心底愛している。収入の大部分を車に注ぎ込み、休日は何時間もかけて洗車し、マフラーの排気音や足回りのセッティングに命を削る。

これは純然たる趣味の領域であり、他人がとやかく言う筋合いのものではない。誰にだって金を惜しみなく注ぎ込む対象はある。

彼らにとって車は単なる移動手段ではなく、生きがいそのものなのだから。

問題は、もう一つの人種である。それは、いわゆる「残価設定ローン(残クレ)」という恐ろしい仕組みに飛びつき、稼いでもいないのに身の丈以上の見栄を買い叩いている連中だ。

この残クレというシステム、実態を知ると背筋が凍るほどよくできている。

数年後に車を返却することを前提に、車両本体価格からあらかじめ数年後の下取り予測額(残価)を差し引き、残りの金額だけを分割で支払っていく。

たとえば一千万円の高級外車でも、三年後の残価が五百万円と設定されれば、購入者が払うのは差額の五百万円と金利分だけで済む。

頭金をほとんど入れず、ボーナス払いを限度額まで膨らませれば、本来なら年収が一千万円、二千万円あっても躊躇するような高級車に、手取り二十万円台の若いサラリーマンが月々数万円の支払いで乗れてしまうのだ。

一見すると夢のような話だが、これこそが「金のない人間に金持ちのふりをさせる」ための現代のカラクリだ。

本質を見れば、車を買っているのではなく、金融機関から「金持ちに見える権利」を有料でレンタルしているに過ぎない。

しかも据え置かれた残価の分にもきっちり金利が乗るため、総支払額で見れば莫大な利息を吸い上げられる構造になっている。

車検証の所有者欄を見れば、刻まれているのは自分の名前ではなく信販会社の名だ。

純資産などろくに持たない若者が、残価率の高い人気外車を転がし、週末のカフェの前でドヤ顔を決め、SNSに垂れ流す。

だが、その実態は優雅さとは程遠い。

走行距離が規定を超えれば違約金が発生するため遠出を躊躇し、駐車場でのドアパンチひとつで将来の残価が吹き飛ぶのではないかと怯え、毎月の引き落とし日が近づくたびにスマホの銀行残高を眺めて冷や汗を流す。

三年後、あるいは五年後には、手元に資産としての一台も残らないまま、据え置き額を一括で払うか、車を返却して別のローンに乗り換えるかという選択を突きつけられるのだ。

目に見える派手な消費は、その人間に真の富があることの証明にはならない。

むしろ資本主義がばらまいた巧妙な仕組みに乗せられ、手元に残るはずの種銭と精神の平穏を差し出して、「他人からの視線」という最もリターンの薄いものに浪費している証拠に過ぎないのだ。

表面上のラグジュアリーに惑わされ、勝手に劣等感を抱く必要など、最初からどこにもなかったのである。

本物の富裕層は、なぜアクアやボロい軽トラに乗るのか

では、本当にお金を持っている人間は、一体どこで何に乗っているのか。
歳を重ねるに連れ、いわゆる「代々の地主」や、地方で堅実に事業を営む創業オーナー、都内に複数の収益不動産を抱える無借金経営者といった、本物の資産家と接する機会が増えてきた。
そこで目にした光景は、若い頃の私の貧困な想像力を木っ端微塵に打ち砕くものだった。
保有資産が十億円を下らないであろう初老の男性が普段乗っている車は、十年落ちのトヨタ・プリウスだった。
白のボディにはところどころ小傷があり、洗車もガソリンスタンドの機械洗車で済ませているという。
一度、恐る恐る尋ねてみたことがある。「失礼ですが、もっといい車に乗ろうとは思われないのですか」と。
彼はきょとんとした顔をして、缶のお茶をすすりながらこう答えた。
「だって、都内の道は狭いし、コインパーキングも幅を気にしなきゃいけないでしょう。プリウスならどこにでも停められるし、壊れないし、燃費もいい。これ以上便利な乗り物って、何かありますか?」
彼の言葉には、ただの純粋な機能美としての評価だった。
彼にとって車は、行きたい場所へストレスなく移動するための「道具」でしかなく、自己顕示の媒体にするという発想そのものが抜け落ちていたのだ。
また、別の資産家は、泥のついたスズキの軽トラックを乗り回している。本物の金持ちは、高級車に乗らないわけではない。
乗りたければ買うし、必要がなければ買わない。必ずしも金持ちが高級車に乗っているというわけではない。
彼らはすでに十分な資産を持ち、社会的な信用を持ち、内面的な自尊心を満たしている。
見ず知らずの通行人に「あいつは金を持っている」と思わせる必要性が、人生のどこにも存在しないのだ。
むしろ、無駄に目立つ車に乗ることは、防犯上のリスクを高め、周囲に無用な嫉妬を生み、面倒な人間を引き寄せるコストにしかならないことを熟知している。
派手な振る舞いで自分を保てない人間ほど、高級車やブランドものを欲しがる。
逆に、中身が岩盤のように揺るぎない人間は、もっとも合理的で気楽な道具を自然体で使い倒す。
このコントラストに気づいたとき、私はかつて六本木で感じていた劣等感が、いかに滑稽なものであったかを思い知った。

丸の内の戦闘服と、平日の公園を歩くおっさん

見栄の構造に気づくまでに十年かかり、「本当の豊かさ」に気づくのにはさらなる歳月が必要だった。
三十代半ばを過ぎた頃、仕事で丸の内周辺に行くことがあった。日本のビジネスの中心地であり、一流の企業と優秀な頭脳が集まる場所だ。
朝の八時半、丸の内を歩くサラリーマンたちの姿は、隙のないオーダーメイドのスーツ、ピカピカに磨き上げられた革靴、洗練された髪型、そして足早に行き交う自信に満ちた足取りだった。
彼らはみな賢く、礼儀正しく、年収も世間一般から見れば遥かに高い水準にある。名刺を出せば誰もが知る大企業の名が刷り込まれており、社会的エリートの看板を背負っている。
かつての私なら、彼らの姿を見て「これぞ成功者の姿だ」と羨望のため息をついていただろう。
しかし、三十年という時間を生きて、少しだけ社会の裏表が見えるようになった私の目には、別の風景が重なって見えるようになっていた。
彼らが身に纏う高級なスーツは、本当に本人が心から着たいものなのだろうか。それとも、組織という巨大な構造物の中で生き抜くために義務付けられた「戦闘服」に過ぎないのではないか。
朝の満員電車に押し込まれ、神経をすり減らしながら出社する。
午前中は終わりの見えない社内調整と会議に追われ、昼休みは同僚と愚痴を交わしながら千五百円のランチを急いで胃に流し込む。
午後は理不尽な顧客の要求と上司のプレッシャーに耐え、夜遅くまで資料作成に没頭する。
土日は平日の疲労を回復するためだけに泥のように眠り、日曜の夕方にはサザエさん症候群に怯える。
いくら千数百万円の年収があろうと、その対価として差し出しているのは、二度と戻らない自分自身の「時間」と「精神の自由」ではないだろうか。
彼らは豊かな報酬を得ているが、その実態は、極めて高い賃金で雇われた「時間拘束型の労働者」に他ならない。
会社という看板を剥ぎ取られたとき、自分の名前だけで何ができるのかという不安を、心の奥底に抱えながら走っている。
そんなことをぼんやりと考え始めたとき、私は仕事の合間にベンチに座っていた。
ふと見ると、目の前の遊歩道を一人の男性が歩いていた。ヨレヨレのチェック柄のネルシャツに、履き古したチノパン。
足元はどこにでも売っているウォーキングシューズだ。手には小さな水筒を持ち、何をするでもなく、ただ空を見上げたり、植栽の花に目を留めたりしながら、ゆっくりと散歩している。
犬を連れているわけでもなく、スマホを凝視しているわけでもない。ただ、ただ、散歩をしているのだ。
世間が忙殺されている平日に、なぜこの男はこんな場所でのんびりと歩いていられるのか。
若い頃の私なら、「平日の真昼間からぶらぶらしている、無職のおっさん」と切り捨てていたかもしれない。
だが、今の私にはわかる。あの男こそが、この空間で最も裕福な人間である可能性が極めて高いということに。
彼は会社に行く必要がない。誰かに頭を下げる必要も、満員電車に乗る必要もない。理不尽な締め切りに追われることもなく、明日のスケジュール帳を睨んでため息をつくこともない。
天気がいいから散歩に出て、喉が渇いたらお茶を飲み、ベンチで風を感じている。
彼が莫大な遺産を持つ資産家なのか、それとも質素な生活を維持できるだけの不労所得を確立した人物なのか、あるいは単に小さな年金と持ち家で悠々自適に暮らしているだけなのかはわからない。
だが、どちらであっても本質は同じだ。
彼は、自分の時間の主権を、完全に自分の手に取り戻している。
丸の内で年収千五百万円を稼ぎながら時間に追われるエリートサラリーマンと、ボロい服を着て平日の昼下がりに公園を散歩しているおっさん。
どちらが人生の主導権を握っているかという観点で見れば、勝敗はあまりにも明白だった。
その事実に芯から気がつくのに、実に三十年もの歳月を費やしてしまったのだ。

目に見えるものしか信じられないという病

現代社会は、徹底的に「目に見えるもの」を崇拝するように設計されている。
テレビをつければ豪華なタワーマンションや高級時計の広告が流れ、スマートフォンの画面を開けば、SNSには誰かの煌びやかなライフスタイルがタイムラインを埋め尽くしている。
旅行先の五つ星ホテル、高級鮨屋のカウンターで差し出されるウニの軍艦、ブランドロゴがこれ見よがしに主張するバッグ。
それらを目にするたび、人間の脳は無意識のうちに「これを持っている人間=成功者=幸せ」という短絡的な等式を組み上げてしまう。
しかし、冷静になって考えてみてほしい。
本当に価値のある資産ほど、目に見えない形で存在しているのではないか。
銀行の口座残高は、誰の目にも見えない。証券口座に眠る優良企業の株式も、街を歩いている時には背中に張り付いていない。
土地の登記簿に記載された所有権も、日常の風景の中には溶け込んでいて判別がつかない。
そして何より、「自由な時間」「健康な身体」「波立たない穏やかな心」「誰にも指図されない平穏な日常」といった、人生において最も貴重な果実は、すべて非視覚的なものなのだ。
それに対して、目に見えるものである高級車、ブランド服、宝飾品、タワマンの高層階は、すべて「他者に見せること」を目的として作られた消費財に過ぎない。
もちろん、それら自体が悪いわけではない。純粋な美しさや機能性に惹かれて購入する分には素晴らしいものだ。
しかし、多くの人間がそれらを求める動機は、自分の内側の空虚さを埋めるため、あるいは他者に対して「自分は価値のある人間だ」と認めさせるための記号としてではないだろうか。
目に見えるものを追いかける競争には、決して終わりがない。
ベンツのCクラスを買えばEクラスが欲しくなり、Eクラスを買えばSクラスが視界に入ってくる。
港区のタワマンの二十階に住めば、四十階のペントハウスに住む住人を見上げて劣等感を抱く。
このゲームの恐ろしいところは、上が常に存在し、どれだけ散財しても「他人との比較」という地獄から抜け出せないことだ。
資本主義というシステムは、私たちに常に「足りない」と思わせることで回っている。
まだこれを持っていないだろう、これを買えばもっと幸せになれるぞ、もっと働いて金を使え、と耳元で囁き続ける。
その声に素直に従い、目に見える記号を買い集めるために自分の命(時間)を削り続ける生き方を、果たして豊かさと呼べるのだろうか。
外から見える豊かさを維持するために、内側の静寂を犠牲にする。
それはまるで、ハリボテの豪華な城を建てるために、城の土台となる岩盤を毎日少しずつ削って売り払っているようなものだ。
外見がどれほど立派になろうとも、いずれその城は自重に耐えかねて崩壊してしまう。

豊かさとは、何を「持っているか」ではなく、何から「自由であるか」

三十代も後半になり、四十という数字が現実味を帯びてきた今、私の価値観は若い頃とまるで正反対の場所に着地した。
今の私にとって、本当の豊かさの定義とは極めてシンプルだ。
それは、何を所有しているかではなく、どれだけのものから「自由でいられるか」という引き算の指標である。
朝、目覚まし時計の不快な金属音に叩き起こされずに済むこと。
気が進まない飲み会や、くだらない人間関係の集まりに、「都合が悪いので」と笑顔で断りを入れられること。
理不尽な要求をしてくる顧客や、機嫌で怒鳴り散らす上司に対して、いつでも「辞めます」と言えるだけの経済的・精神的なクッションを持っていること。
天気がいい日に、ふらりと外に出て、あてもなく近所の河川敷を歩けること。
スーパーで値段の十円、二十円の差に血眼にならず、自分が食べたいと思った新鮮な野菜を迷わずカゴに入れられること。
そして夜、布団に入ったときに、明日の仕事のプレッシャーに胃を痛めることなく、泥のように深く安らかな眠りに落ちること。
これらの中に、六本木通りを唸りを上げて走り去る高級車が必要な場面が、一体どこにあるだろうか。仕立ての良い十万円のスーツが必要な瞬間が、どこにあるだろうか。
どこにもないのだ。
私が公園で見かけたあのおっさんは、おそらくこの境地にいたのだと思う。
彼の手元にあるのは、最新鋭のガジェットでも、富の象徴たるキーケースでもない。ただの、誰にも邪魔されない「自分の時間」だった。
彼は、満員電車から自由であり、締め切りから自由であり、他人の評価から自由だった。
その自由は、丸の内で神経をすり減らしながら数千万円の年収を稼ぎ出すエリートビジネスマンが束になっても敵わないほど、圧倒的なものだったはずだ。
目に見えるものは、いつか失われる。車は擦れば傷がつき、型落ちになり、いつかは鉄くずになる。ブランドものの服は流行が過ぎれば着られなくなり、生地は傷む。
肉体は衰え、社会的肩書など会社を一歩出れば何の役にも立たない紙切れに過ぎない。
しかし、自分自身の内側に築き上げた「足るを知る心」と、自分でコントロールできる「時間の余白」は、誰にも奪うことができない。
それこそが、株価のように暴落もせず、車のように維持費もかからず、他人の目を気にする必要もない、人生における最強の資産なのだ。

見栄を脱ぎ捨てた後に残る、静かな生活の豊かさ

かつて給料が少し上がっただけで気が大きくなり、外車の中古車サイトに張り付いては見栄の妄想を膨らませていた頃の自分を振り返ると、滑稽であると同時に、少しだけ愛おしくも思える。
あの時、机の上で電卓を叩き、叩き出された現実の維持費に青ざめてブレーキを踏み切った経験があったからこそ、私は見栄というものの底の浅さを肌身で理解することができた。
教科書や自己啓発本で「見栄を張るな」と何千回読まされるよりも、自分の手取りとリアルな維持費のギャップに冷や汗を流し、契約書を前に踏みとどまったあの夜の苦い自覚の方が、遥かに血肉の通った教訓として私の中に刻み込まれている。
現在の私の移動手段は、もっぱら徒歩と、中古で買った何の変哲もない国産車、そして時々の電車だ。
車には何のステータス性もない。街の景色に完全に溶け込み、誰も振り返りもしない。だが、故障の心配は皆無で、レギュラーガソリンで驚くほど走り、税金も安い。
コインパーキングの狭い枠にも一発で収まり、万が一どこかに小さな擦り傷を作ったとしても、私の心は1ミリも痛まない。道具としてこれ以上完成されたものがあるだろうか。
あの時、無理に外車へ手を出して生活をすり減らす道を選ばず、見栄のための服を買うのもやめ、他人と競い合うための消費から完全に降りたことで、私の生活からは驚くほどストレスが消え去った。
浮いたお金と時間は、すべて自分の静かな日常のために使われている。
少しこだわった豆を買い、休日の朝にゆっくりと時間をかけてハンドドリップでコーヒーを淹れる。
お気に入りの作家の文庫本を一冊ポケットに突っ込んで、あてもなく近所の喫茶店まで散歩する。
平日の昼間、どうしても煮詰まったときは仕事を放り出して、近くの公園のベンチで雲の動きをぼんやりと眺める。
かつて私が「うだつの上がらないおっさん」と見下しかけていた、あの公園の風景の中に、今や私自身がすっぽりと収まっているのだ。
そしてその場所から見える世界は、二十代の頃に憧れていた六本木の交差点よりも、何倍も穏やかで、澄み渡っていて、心地よい。
世の中はこれからも、巧妙な広告とアルゴリズムを使って、あなたに新しい「高級な記号」を売りつけようとしてくるだろう。
新しい車を買え、もっといい服を着ろ、タワマンに住め、もっと働いて消費の階段を駆け上がれ、と煽り立ててくるに違いない。
だが、そんな声に足を止める必要はない。
本当の金持ちは、高級車に乗るとは限らない。
そして、本当の豊かさを手に入れた人間は、自分が豊かであることを、誰かに証明する必要すら感じていないのだから。
もしあなたが今、他人の派手な暮らしぶりに胸をざわつかせ、何者かにならなければならないと焦っているのなら、一度平日の昼下がりに、近くの公園を訪れてみてほしい。
そこにはきっと、ボロい服を着て、ただゆっくりと歩いている誰かがいるはずだ。
その人の足取りの軽やかさに目を凝らしてみてほしい。
社会が押し付けてくる「成功のテンプレート」から軽やかに降り立ち、自分の人生の時間を自分のためだけに贅沢に使っているその姿の中に。
目に見えるものよりも遥かに価値のある、本当の豊かさのヒントが静かに隠されている。